会長 岡本 仁(おかもと じん)
目覚めてからベッドに入るまで、音楽は間断なく耳から入り脳に達する時代です。
《光は目から、香りは鼻から、味は舌から、空気は肌から》感じます。世の中が豊かになればなるほどこれらの感覚も発達し精神に満足を運ぼうとします。
けれども、聴覚に関する環境は上の四つの感覚に比べて著しくかけはなれ、“鳴りっぱなし”の状態が何の疑問もなく放置されたままです。
○駅や街路の無意味な音楽
○エレベータや電車のドアの開閉毎のチャイム
○コンピュータや携帯電話の操作音
○ニュースや気象予報の裏にまで流されるBGM
○自治体のゴミ回収も音楽とともに
○スポーツの応援もヨーロッパのそれとはかけ離れほとんど騒音、雑音
○情感だけを刺激するドギツイ音響のポップミュージック
数えていくとキリがないないほど無駄に聴覚が刺激され、人々は酸性雨のごとく降り注ぐそれらに何の関心も持たないようになってしまっています。こうなった原因はどこにあるのでしょうか。
それは、生れ落ちてからの成長過程にあると思いませんか?
「教育音楽学会」はこれらと取り組んでいくための研究組織です。
2006年12月
会長 岡本 仁
音楽の起源については諸説があり、未だ断定には至らないが、比較音楽学の研究成果からその“はじまり”について以前より推定の度合いが確信を持ちつつある……と言われるようにもなった。
1895年ドイツに生まれた作曲家パウル・ヒンデミットは、その著書 『A Composer's World; Horizons and Limitations Cambridge, Harvard University Press, 1952.』の中で、アウグスティヌスおよびボエティウスの論を 「知的作用」 と 「情的反応」 と表現しながら音楽と人間の関わりについて述べているがこれはいうまでもなく先哲の研究の敷衍(ふえん)(*1)にほかならない。
曰く『一般大衆が滔々(とうとう)たる音楽の洪水の中で、麻薬のようにこれに耽って、無気力にそれから快楽だけを求めているというのは、彼らが音楽の倫理力 (*2)に毒されていることにほかならない。
さらに“音楽が人間を動かす力”を重要視し過ぎる結果は、アウグスティヌス的立場とは反対に、音楽の外形がどうでもよいどころか、それが絶対的な意味を持って来る。従ってそのところに技術偏重の態度が生まれる……』
(引用は前出書の邦訳「作曲家の世界」1955年音楽の友社刊、佐藤 浩訳、括弧等は筆者による)
ここにおいて本学会は“何を教え込むか……”に埋め尽くされた音楽教育の現況を“いかに本質を学ぶべきか……”の本質に立ち返り、最小限必要と思われる音楽享受の二要素“音感訓練”と“優れた古典の学習”に圧縮・収斂したものを『教育音楽』と標榜しその研究と実践を遂行しようと願うものである。
「音育・音感・カノン」
ことさら造語を行いそれでなくとも“混迷の”音楽教育に新たな概念を発生せしめる意図は微塵もない。
<……滔々たる音楽の洪水の中で、麻薬のようにこれに耽って、無気力にそれから快楽だけを求めている……>(上述)
「飽食の時代にあって食育の提唱」があるように、「降り注ぐ雨のごとく」さまざまな音楽に囲まれた中でそれを選別する能力(環境の整備と本人の選別力と)をひとまず『音育』と呼んでおく。
手始めに『音感(倍音の聴取と純正な三和音の体感)』の訓練を行うとともにその指導方法も周知させていく。さらに、これまでの我が国の音楽教育(学校もピアノ塾も)にもっとも欠如していたポリフォニー音楽の学習を重点的に積極的に行うための手がかりとして優れた『カノン』の歌唱を徹底して行う。
かくて、当学会が基本方針とする『音感・カノン』の柱が打ち立てられた。
*1 先哲の研究の敷衍
古代ギリシアでは音楽を2つの方向から研究している。
1.「音」そのものの研究 (ソホクレス、ピタゴラス、アリストクセノス,etc.)
2. 音楽の本質・倫理性 (プラトン、アリストテレス,etc.)
*2 音楽の倫理力
ヒンデミットによれば、音楽が人間に及ぼす力→〈良い意味での感化力〉と〈反対に人間を堕落させる力〉の双方を指す。